市民のためのがん治療の会
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『がんになる前に乳房を切除する 遺伝性乳がん治療の最前線』


毎日新聞社外信部長
小倉孝保
本年10月末、厚生労働省が遺伝性乳がんの原因となる遺伝子変異が見つかった場合に、 将来がんになるリスクを減らすための予防的な乳房切除手術を「考慮してもよい」と明記した初の診療指針をまとめた。
米国人女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが、2013年に乳がんを予防するために、 健康な両乳房を切除して再建する手術を受け2015年には卵巣がんを予防するために、 両側の卵巣・卵管を切除する手術を受け話題となったことは記憶に新しい。
遺伝子検査の結果を知ることは、まだがんになっていないものの、人生に大きな影響を与えることは想像に難くない。 究極の個人情報でもある遺伝子検査の結果をどのように管理するのかなども含め、あらゆる角度から倫理的配慮を行うことも必要とされている。
そう、この問題は医学的な見地よりもむしろ人種、民族、宗教、個人の価値観など、多様なファクタが影響し合う。
当会でも既に遺伝性のがんについて、膵がん、大腸がん、乳がんなどについてそれぞれの専門家からご寄稿いただいているが、 今回は長い海外でのご経験と優れた取材センスで数々の高い業績を挙げておられる毎日新聞社外信部長の小倉孝保氏の「がんになる前に乳房を切除する 遺伝性乳がん治療の最前線」を、 当コラム名物「自著紹介」で取りあげさせていただいた。コラムをご覧いただき、是非本書をご一読いただきたいと思います。
(會田 昭一郎)

日本人は「遺伝性」について、悲しいほど否定的なイメージを抱いている――。

日本と英国で遺伝性乳がんの関係者を訪ね歩く中、私はそう考えるようになった。 この本が、遺伝性疾患への暗いイメージを払拭することに役立てばと考えている。


まずは、ある女性の体験から話を始めよう。

二〇一四年六月二十八日。近畿大学東大阪キャンパス十九号館三階講堂にあふれる熱気が、市民公開シンポジウムへの関心の高さを示していた。 日本遺伝カウンセリング学会学術集会イベント会場には立ち見も出るほどだった。

「遺伝性乳がん・卵巣がん症候群(HBOC)と遺伝カウンセリング」と題したシンポジウムが注目された理由は二つあった。 一つは前年五月に米国の女優、アンジェリーナ・ジョリーが両乳房を予防的に切除した体験を告白し、HBOCへの関心が高まっていたこと。 もう一つは、HBOCの当事者(患者)が登壇することになっていたためだ。 当時、日本ではHBOC患者が自分の体験を公に語るケースは極めて珍しかった。

壇上に用意されたパイプ椅子に並んだのは中村清吾、三木義男ら日本の遺伝医療をリードする医師たちだった。 その横に一人の小柄な女性の姿があった。パンフレットにもネームプレートにも名前は記されていない。 医療者たちのスピーチに続いて司会者はこの女性を、「患者様」と紹介した。 マイクをもらった女性は自然な口調でこう話し始めた。

「HBOC当事者のだざい・まきこ(太宰牧子)です」

日本のHBOC当事者が名前と顔を初公開した瞬間だった。太宰は言う。

「(名前を出すことについて)そんなに深刻に考えていたわけではないんです。 ただ遺伝病だからといって病気を隠すことには違和感がありました」

遺伝性疾患の特徴は、その影響が家族や親類にまで広がることだ。 また、その遺伝子を持った場合、生涯それを変えることはできない。 そのため遺伝性の場合、家族への影響を考慮して、病気を隠す傾向が他の病気に比べて強い。

今年乳がんで亡くなった人気フリーアナウンサー、小林麻央の場合も、遺伝性を疑う声があり、彼女自身、遺伝子検査の結果をこうブログで報告している。

「遺伝子検査をした結果、BRCA1、BRCA2の変異はともに陰性で、」

小林が懸念したのは、もしも遺伝性だった場合、母を傷つけ、姉を心配させることだった。

日本では遺伝性と分かった場合、結婚や就職の障害になるのではないかという危惧を抱く人は少なくない。 そのため、病気を伏せる傾向にある。太宰が名前、顔を公表することについて主治医に相談したとき、主治医でさえ「サポート体制も整っていない。まだ、無理ではないか」という反応だった。


HBOCについて簡単に説明しておこう。

乳がんや卵巣がんのリスクを高める遺伝子があることがわかっている。 BRCA1とBRCA2である。両遺伝子は本来、傷ついた遺伝子を修復する機能を備えたがん抑制遺伝子である。 その遺伝子に生まれつき変異があって本来の修復機能がなくなったとき、細胞ががん化する確率が高まり、乳がん・卵巣がんのリスクを増大させる。これがHBOCである。

太宰は姉を卵巣がんで亡くしている。その後、自分が乳がんになった。 遺伝子検査の結果、BRCA1に変異があった。二〇一一年に乳房を切除し、その後抗がん剤治療を受けた。 三年が経過した二〇一四年五月、再発、転移がなかったことから、実名を公表して活動するようになる。 その後、HBOCの理解を深めようと、日本初のHBOC患者会である非営利団体「クラヴィスアルクス(ラテン語で「虹色の世界を開ける鍵」の意)」を立ち上げている。 いま太宰は当事者やその家族の悩みを聞くほか会報を発行し、学会や大学医学部が主催するシンポジウムに出席。 大きな病院を回ってHBOCの対応を調査し、最近はメディアへの対応にも忙しい。太宰は言う。

「やっぱり会の名前だけでは、うさん臭く思われるんだと思うんです。 本当に相談してもいいんだろうかと。 それが、名前と顔を出したことで、個人的なことでも聞いてもらえると思ってもらえたと思います」

今、太宰は電話で、「やっと当事者の人と話ができた」と言って泣き出す女性や、「娘が乳がんで先に逝ってしまった。 遺伝性かもしれないが、自分は遺伝子検査を受けるべきだろうか」と悩む母の話に耳を傾ける。


「がんになる前に乳房を切除する 遺伝性乳がん治療最前線」は、HBOCの対応先進国である英国の現状を取材し、日本の現状と比較する形で書いたノンフィクションである。 特に多くのページを割いて紹介しているのが乳房の予防切除である。

米国女優、アンジェリーナ・ジョリーの告白で話題になった乳房の予防切除は、遺伝的にがんになりやすい女性が、将来のがんリスクを下げるために行う医療措置だ。 その源流を探ると英国女性、ウェンディ・ワトソンに行き着く。 彼女が一九九二年に両乳房を予防切除するまでの医師や官僚とのやりとりは、時におかしく、時に常識破りだ。

英国で遺伝性疾患や予防切除について隠す人が少ないことは、ウェンディが乳房の予防切除をした女性たちの写真を集めたセミヌード・カレンダーまで作っていることでもわかると思う。 ウェンディの奮闘ぶりを中心に、太宰たち日本の当事者の治療、乳房再建の現状を報告している。 まじめなテーマだが、ほほえましく、笑えるエピソードも多い。 遺伝に対する考え方に違いの大きな両国だが、女性のたくましさは共通している。 それを感じてもらえる作品だと思う。 また、日本と英国の考え方や習慣の違いを考えるのにも役立つはずだ。 肩の力を抜いて読んでもらえればと思う。(敬称略)



小倉孝保(おぐら・たかやす)

1964年滋賀県長浜市生まれ。1988年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長を経て2015年7月より外信部長。英国の乳房予防切除の実態報告で14年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人 「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター最優秀賞をダブル受賞。著書に『初代一条さゆり伝説 釜ヶ崎に散ったバラ』(葉文館出版)、『戦争と民衆 イラクで何が起きたのか』(毎日新聞社)、『大森実伝 アメリカと闘った男』(同)、『ゆれる死刑 アメリカと日本』(岩波書店)、『三重スパイ イスラム過激派を監視した男』(講談社)、『空から降ってきた男 アフリカ「奴隷社会」の悲劇』(新潮社)がある。
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