『新型たばこによる「ハームリダクション」は可能か?』
がん対策研究所
データサイエンス研究部
部長 片野田 耕太
「がん医療の今」では世界禁煙デーに因んで毎年この時期に禁煙に関する専門家の先生方にご寄稿をいただいております。
今回は国立がん研究センターがん対策研究所データサイエンス研究部部長の片野田耕太先生にご寄稿いただきました。 お忙しいご公務にも拘わらず玉稿賜り、御礼申し上げます。
はじめに
「ハームリダクション」という言葉を聞いたことがありますか?
「ハームリダクション」(日本語では「危害削減」などと訳されます)は、薬物依存の分野で提唱されている概念で、
『その使用を中止することが不可能または不本意であるドラッグについて、使用によるダメージを減らすことを目的とした政策・プログラム・実践』
と定義されています(「国際ハームリダクション協会」1の定義を書き下したもの)。 例えば薬物使用者の間で注射器の回し打ちを避けるために、清潔な注射器を配布して使用済みの注射器を回収する「注射器交換プログラム」というものがあります。 これはドラッグの使用そのものを減らすことはできませんが(むしろ使用のための道具を配っています)、注射器を介してHIV感染やAIDSが広がることを予防する効果があります。 このように、ドラッグの使用そのものを避けることよりも、ダメージを防ぐことと、ドラッグを使用する当事者に焦点を当てるのが「ハームリダクション」の特色です。この「ハームリダクション」の概念が、最近たばこ産業によって盛んに使われるようになりました。 ご存じの通り、日本では新型たばこの一つとして「加熱式たばこ」が流行しています(アイコス、プルーム、グローなどの商品が知られています)。 「加熱式たばこ」は、たばこ葉が含まれるれっきとしたたばこ製品なのですが(たばこ税もかかっています)、成分によっては従来型の紙巻たばこより有害物質の濃度が低いことから、 紙巻たばこの代わりに使ってもらえば、たばこがやめられなくても害を減らせるのではないか、というわけです。 一見すばらしいことのように聞こえますが、実際どうなのでしょうか。 がん治療と関係ない話で恐縮ですが、しばしお付き合いいただけますと幸いです。
「たばこハームリダクション」が成り立つために何が必要か
新型たばこでハームリダクション、と言うのは簡単ですが、実際それが公衆衛生の施策として成り立つためにはいくつかの条件を満たす必要があります2。
まず、
①新型たばこの健康リスクが紙巻たばこより低い(リスク低減)
です。
健康被害を減らすのが「ハームリダクション」ですから、新型たばこが紙巻たばこより明らかにリスクが低いことが必須です。
次に
②新型たばこ製品に切り替えることで紙巻きたばこをやめることができる(スイッチ/禁煙の効果)
です。
新型たばこを使い始めて、紙巻たばこと両方使いになってしまっては元も子もありません。
新型たばこが禁煙の助けになることが必要です。
さらに
③新型たばこ製品の流行によって新たな健康問題が生じない(新たな懸念)
が必要です。
「たばこハームリダクション」は、紙巻たばこの代わりに新しいたばこ製品を流通させることになります。
この製品が例えば未成年に広がったり、大麻と一緒に使われたりしてしまうと、新たな健康問題を生じることになります(実際、米国では電子たばこがそのような懸念を生じています)。
加熱式たばこで「ハームリダクション」は可能か?
では、日本で流行している「加熱式たばこ」は、これら3つの条件を満たしているのでしょうか。 まず、①のリスク低減についてです。「加熱式たばこ」は紙巻たばこに有害物質の一部(一酸化炭素、たばこ特異的ニトロサミンなど)の濃度が低いことが報告されています。 しかし、それが実際病気のリスクを減らすレベルまで低いかどうかは明らかではありません。 たばこ産業はかつて、「低タール」「低ニコチン」たばこをあたかもリスクが低減するかのように宣伝していましたが、その後肺がんなどのリスクが減らないことが明らかになりました。 製品としての有害物質の量と健康リスクの大きさは必ずしも連動していないのです。 米国医薬品食品局(FDA)も、フィリップモリス社のアイコスについて、体に入る有害物質の量(曝露量と呼びます)を減らすことは認めましたが、病気のリスクを減らすことについては認めませんでした。 「加熱式たばこ」が発売されて10年近くが経過して、酸化ストレスや血管の内側の細胞への影響を介した循環器系疾患との関連や、DNAメチル化異常を介したがんとの関連がすでに報告されています3。
②のスイッチ/禁煙の効果についてはどうでしょうか。 「加熱式たばこ」は日本が世界シェアの8割以上を占めていると言われます。 使用者が多いことから、「加熱式たばこ」使用者が紙巻たばこをやめられたかどうかについての研究が蓄積しています。 それによると、「加熱式たばこ」は、紙巻たばこの禁煙をむしろ阻害することがわかっています2。
③の新たな懸念について、「加熱式たばこ」はこれまでのたばこにはなかった多くの問題を生じていることがわかっています。 例えば、2020年に施行された「改正健康増進法」では、飲食店などが原則屋内禁煙となりましたが、「加熱式たばこ」は例外扱いされ、飲食が可能な屋内で使用できるままになっています。 最近の研究では、屋内で「加熱式たばこ」を使用すると、同じ空間にいる非喫煙者の尿からニコチン関連物質が検出されることが明らかになりました4。 「加熱式たばこ」は屋内で使用しても安全であるかのように宣伝されていますが、実際は受動喫煙があることを示しています。 全国のコンビニでは「新型たばこ」のサンプルがレジ横の特等席に堂々と置かれており、子どもが容易に触れるような状況になっています(これは世界的にも珍しく、海外からこられた方がよくギョッとされています)。 「加熱式たばこ」が紙巻たばこと異なる特別扱いを受けている現状は、未成年を含む多くの人が製品やそれに含まれる有害物質にさらされる危険を生み出しています。 「加熱式たばこ」を使っている人も、屋内で使っても安全だと誤解して、意図せず家族に有害物質を吸わせている可能性があります。
日本で「加熱式たばこ」が特別扱いを受けている背景には、たばこ製品が保健当局(つまり厚生労働省)ではなく、財務省の管轄になっていることがあります。
日本には「たばこ事業法」という法律があり、その目的に「たばこ事業の健全な発展」と「税収の確保」が明記されています。
たばこが税収確保のための存在である以上、たばこによる健康被害(つまりハーム)を減らすための対策をとることは根本的に難しいのです。
そういう意味で、上記の3つの条件に加えて、
④保健当局がたばこ産業から独立してたばこ規制ができる(保健当局の規制権限)
ことが「たばこハームリダクション」の成立には不可欠だと言えます2。
実際、米国ではFDAがたばこの規制権限を獲得しました。
海外で「たばこハームリダクション」が実現しているのか
日本以外の状況はどうなのでしょうか。 先に紹介した米国では、2009年に成立した法律に基づいて、FDAが「ハームリダクション」になりえる製品の審査と承認をする制度を始めました。 しかしながら、2024年5月現在、それが認められた製品は「スヌース」という「かぎたばこ」(口の中に留置するタイプのたばこ)だけです。 英国ではニコチンを含む「電子たばこ」(たばこ葉ではなくニコチンの抽出物が含まれています)が禁煙の手段として広く使われており、 喫煙率は男女計で13%(日本は27%)にまで下がっていますが、保健当局が承認した「電子たばこ」は今のところありません(代わりに一般消費財としての「電子」たばこが流通しています)。 また、米国、英国とも紙巻たばこが1箱1,300円以上、公共の場所は屋内がほぼ全面禁煙で、そもそも紙巻たばこを吸える環境が非常に狭くなっています。 英国や米国の一部地域では、ある年以降に生まれた世代にたばこ製品の販売を禁止する法律まで可決されています。 従来型のたばこ対する厳しい規制があって初めて、紙巻たばこから新しい製品へのスイッチが実現するのです。 韓国やイタリアなど、加熱式たばこがある程度流通している国でも、保健当局が「たばこハームリダクション」を公式に認めているところはありません。
おわりに
「たばこハームリダクション」について、日本の加熱式たばことの関係、海外の実情を紹介してきました。 たばこに含まれるニコチンには強い依存性があり、たばこをやめることは容易ではありません。 そういう意味で「ハームリダクション」が議論される素地はあります。 しかしながら、リスクが低そうだから「ハームリダクション」ができるかというとそんなに単純ではなく、実際「低タール」の失敗例もあります。 「ハームリダクション」を含めて、たばこをめぐる問題は、法律や規制枠組みなど、社会的な背景を含めて考える必要があります。 みなさんがこの問題については考えるきっかけになれば幸いです。
文献
1. ハームリダクションとは?国際ハームリダクション協会. https://www.hri.global/files/2016/04/06/What_Is_Harm_Reduction_JP_2015.pdf
2. 片野田耕太, 十川佳代, 中村正和. 「たばこハームリダクション」は可能か?:国際的動向と日本での論点. 日本公衆衛生雑誌 2024;71( 3): 141-152
3. 報告 加熱式タバコの毒性を知り科学的根拠に基づく施策の実現を. 日本学術会議 https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-25-h230926-2.pdf
4. Onoue A, Inaba Y, Machida K, et al. Association between Fathers' Use of Heated Tobacco Products and Urinary Cotinine Concentrations in Their Spouses and Children. Int J Environ Res Public Health 2022;19(10):6275
2002年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、国立健康・栄養研究所研究員、 2005年国立がん研究センター(旧 国立がんセンター)研究員などを経て、 2023年新たに発足したがん対策研究所データサイエンス研究部長として、がん統計などの研究活動を行う。
2022年から日本疫学会の英文機関誌Journal of Epidemiologyの編集長。近著『本当のたばこの話をしよう 毒なのか薬なのか』(日本評論社)。