がん患者の思うこと、感じること
『不安と不満と感動と感謝とともに癌と闘って10年
-もがき続けて、生きる-』
看護師 木之元和美
私は2回の開腹術と1回の胸腔鏡下手術および60グレイの放射線治療を受けています。
私のがんとの闘いは10年に及ぼうとしています。瞬くままに過ぎてしまった気もしますが、いつまで続くかわからない長いトンネル内を恐る恐る歩いているような不安な気持ちが常に頭の中をよぎっていることも確かです。
人間ドックでの超音波検査の結果胆嚢壁の肥厚は平成9年くらいから指摘されており繊維腫の可能性が高いということで定期検査にて様子観察をしておりました。
16年3月人間ドックで山梨医大の板倉先生により、膵胆管合流異常が発見され、膵液により胆道系が侵襲されている可能性が高く、胆嚢がんの疑の診断でした。胆嚢を切除することになり、平成16年3月30日拡大胆嚢摘出術が実施されました。結果胆嚢がんの診断がされたのです。
幸い他への転移は認められず、2週程度で退院でき、その後の経過観察が指示され、職場復帰も果たすことができました。そして日常生活はもとに戻り経過観察のための受診に行くことも忘れかけていた平成22年11月コレステロールの検査を近医で受けた際腫瘍マーカーをしてもらいました。正常値の10倍以上の数値がだされ、主治医に連絡。転移かもしれないということで精査をした結果、肝内胆管がんの診断がされ、12月2日肝臓の部分切除を受けることになりました。またすぐ直るという客観的な受け止め方をしていた私にとって、ここからが本当の癌との闘いになるとは夢にも思っていませんでした。
手術当日、看護師が見えて、手術衣に着替えて点滴しながら歩いて手術室に行く説明がされ、
「え!どうして・前の手術の時は前麻酔の注射をして、うとうとした状態でストレッチャーに乗って、連れて行ってくれました」と私は言いました。
「看護師不足の解消と医療事故防止のためです」看護師の説明でした。
そして、そのまま手術室の前で家族や受け持ちの看護師と別れ、中へ入っていき、名前の確認を受け、手前から3番目の手術室へ入っていきました。部屋の周囲には器具機材が山のように積まれており、中央にポツンと手術台がありました。そして白い帽子と手術衣とマスクに覆われた6~7名の白い怪物の目だけが私を待っていました。その時の私には怪物としか見えませんでした。そして目だけに見守られながら、2段か3段の階段を昇り仰向けになり、天井の照明器具が目の前に広がったと同時に私の左大腿部がガタガタしてきました。何だろうと思っていると
「この人震えている」という女性の声がして
「あ・・・・私はふるえているのだ」と思いながら、眠りに入り気付いた時には回復室にいました。今回は転移でなく原発でした。
平成16年から22年の間に県外の総合病院で心臓と肺の取り違えの医療事故が起きたことを契機に様々なリスクを排除する為にシステムを変えたことを後から知りました。仕方ないことだと思いながら、2度と手術は受けたくないと考えていました。まさか2年以内に転移が見つかるとは夢にも思っていなかったからです。
平成24年5月転移性肺腫瘍の診断を受けました。左右の肺に複数の腫瘍があり、抗がん剤でたたけるだけ叩いて切除できる状況にもっていき、残りは放射線治療と方針がだされました。化学療法が平成24年5月2日から開始されました。
そして平成25年4月右肺下葉に4個の腫瘍が集中しているということで切除が決定され、はじめて泣きました。しかし泣いている暇はありません。治療がある限り受けようと決心し、4月10日に手術が決定しました。前回同様手術の前日、麻酔科医の説明を受けその際、前回の恐怖と孤独だったことを医師に伝えました。医師からは、
「前麻酔をしましょうか?」との言葉をいただいたのですが、私だけシステムを変えてもらうわけにはいきません。その後手術室看護師の前訪問があり、様々な説明がありました。しかし、私の放った言葉は、「患者の不安を軽減するための前訪問ですね・・」と前置きをし、前回の恐怖感と孤独感を訴えました。私はどんな答えを期待して訴えたのか、何も変わらないと理解していながら、思いをぶつけたのだろうと思います。そして・・
当日、手術室入口で、「昨日伺った看護師の曽田です。お待ちしておりました」と、マスクの無い顔で出迎えてくださいました。中へ入ると全員の医師がマスクの無い見覚えのある顔で、
「昨日説明をした麻酔科の菱山です」「玉井です」
「呼吸器科の内田です」「田原です」と
個々に挨拶し、笑顔で出迎えてくださいました。
なんということでしょう!その瞬間私の不安と不満はスーッと解消し、手術台の上に上がることができました。その時の感動と喜びは、今でも忘れません。その感動を言葉にして表す機会のないまま今に至っております。左肺の放射線治療も終わり今は元気に緩和ケア病棟を有する診療所で働いております。私は、ただ一つだけ、心を救って欲しかったのだけだと知ることができました。
我々患者は不安・不満をどう訴えていいかわかりません。うるさい患者・モンスターペイシェントと受けとめられることが多い現状だと思います。患者に寄り添うということは医療者側としては大変なことです。
命も心も救える医療の現場を求める限り、患者側も今の素直な思いを(文句とか怒りではなく)伝えることが大切ではないでしょうか。
そして私は、 治療がある限りもがき続けて行こうと考えています。
略歴私のがんとの闘いは10年に及ぼうとしています。瞬くままに過ぎてしまった気もしますが、いつまで続くかわからない長いトンネル内を恐る恐る歩いているような不安な気持ちが常に頭の中をよぎっていることも確かです。
人間ドックでの超音波検査の結果胆嚢壁の肥厚は平成9年くらいから指摘されており繊維腫の可能性が高いということで定期検査にて様子観察をしておりました。
16年3月人間ドックで山梨医大の板倉先生により、膵胆管合流異常が発見され、膵液により胆道系が侵襲されている可能性が高く、胆嚢がんの疑の診断でした。胆嚢を切除することになり、平成16年3月30日拡大胆嚢摘出術が実施されました。結果胆嚢がんの診断がされたのです。
幸い他への転移は認められず、2週程度で退院でき、その後の経過観察が指示され、職場復帰も果たすことができました。そして日常生活はもとに戻り経過観察のための受診に行くことも忘れかけていた平成22年11月コレステロールの検査を近医で受けた際腫瘍マーカーをしてもらいました。正常値の10倍以上の数値がだされ、主治医に連絡。転移かもしれないということで精査をした結果、肝内胆管がんの診断がされ、12月2日肝臓の部分切除を受けることになりました。またすぐ直るという客観的な受け止め方をしていた私にとって、ここからが本当の癌との闘いになるとは夢にも思っていませんでした。
手術当日、看護師が見えて、手術衣に着替えて点滴しながら歩いて手術室に行く説明がされ、
「え!どうして・前の手術の時は前麻酔の注射をして、うとうとした状態でストレッチャーに乗って、連れて行ってくれました」と私は言いました。
「看護師不足の解消と医療事故防止のためです」看護師の説明でした。
そして、そのまま手術室の前で家族や受け持ちの看護師と別れ、中へ入っていき、名前の確認を受け、手前から3番目の手術室へ入っていきました。部屋の周囲には器具機材が山のように積まれており、中央にポツンと手術台がありました。そして白い帽子と手術衣とマスクに覆われた6~7名の白い怪物の目だけが私を待っていました。その時の私には怪物としか見えませんでした。そして目だけに見守られながら、2段か3段の階段を昇り仰向けになり、天井の照明器具が目の前に広がったと同時に私の左大腿部がガタガタしてきました。何だろうと思っていると
「この人震えている」という女性の声がして
「あ・・・・私はふるえているのだ」と思いながら、眠りに入り気付いた時には回復室にいました。今回は転移でなく原発でした。
平成16年から22年の間に県外の総合病院で心臓と肺の取り違えの医療事故が起きたことを契機に様々なリスクを排除する為にシステムを変えたことを後から知りました。仕方ないことだと思いながら、2度と手術は受けたくないと考えていました。まさか2年以内に転移が見つかるとは夢にも思っていなかったからです。
平成24年5月転移性肺腫瘍の診断を受けました。左右の肺に複数の腫瘍があり、抗がん剤でたたけるだけ叩いて切除できる状況にもっていき、残りは放射線治療と方針がだされました。化学療法が平成24年5月2日から開始されました。
そして平成25年4月右肺下葉に4個の腫瘍が集中しているということで切除が決定され、はじめて泣きました。しかし泣いている暇はありません。治療がある限り受けようと決心し、4月10日に手術が決定しました。前回同様手術の前日、麻酔科医の説明を受けその際、前回の恐怖と孤独だったことを医師に伝えました。医師からは、
「前麻酔をしましょうか?」との言葉をいただいたのですが、私だけシステムを変えてもらうわけにはいきません。その後手術室看護師の前訪問があり、様々な説明がありました。しかし、私の放った言葉は、「患者の不安を軽減するための前訪問ですね・・」と前置きをし、前回の恐怖感と孤独感を訴えました。私はどんな答えを期待して訴えたのか、何も変わらないと理解していながら、思いをぶつけたのだろうと思います。そして・・
当日、手術室入口で、「昨日伺った看護師の曽田です。お待ちしておりました」と、マスクの無い顔で出迎えてくださいました。中へ入ると全員の医師がマスクの無い見覚えのある顔で、
「昨日説明をした麻酔科の菱山です」「玉井です」
「呼吸器科の内田です」「田原です」と
個々に挨拶し、笑顔で出迎えてくださいました。
なんということでしょう!その瞬間私の不安と不満はスーッと解消し、手術台の上に上がることができました。その時の感動と喜びは、今でも忘れません。その感動を言葉にして表す機会のないまま今に至っております。左肺の放射線治療も終わり今は元気に緩和ケア病棟を有する診療所で働いております。私は、ただ一つだけ、心を救って欲しかったのだけだと知ることができました。
我々患者は不安・不満をどう訴えていいかわかりません。うるさい患者・モンスターペイシェントと受けとめられることが多い現状だと思います。患者に寄り添うということは医療者側としては大変なことです。
命も心も救える医療の現場を求める限り、患者側も今の素直な思いを(文句とか怒りではなく)伝えることが大切ではないでしょうか。
そして私は、 治療がある限りもがき続けて行こうと考えています。
木之元 和美(きのもと かずみ)
昭和45年 甲府第一高等学校卒業
47年 准看護師免許
56年 看護師免許
49年 山梨勤労者医療協会
59年 上記 退職
60年 医療法人 石和温泉病院
平成4年 病棟婦長
6年 感染対策副委員長・褥瘡対策副委員長→退職まで
普通第一種圧力容器取扱作業主任者
10年 介護支援専門員取得
11年 看護部次長、ケアマネジャー兼務
13年 オーストラリア海外研修
18年 看護部長→退職まで 同年山梨県看護功労賞受賞
山梨県立看護大学非常勤講師
23年 石和温泉病院定年退職
24年 医療法人どちペインクリニック 玉穂ふれあい診療所 医療地域連携室、
現在に至る
昭和45年 甲府第一高等学校卒業
47年 准看護師免許
56年 看護師免許
49年 山梨勤労者医療協会
59年 上記 退職
60年 医療法人 石和温泉病院
平成4年 病棟婦長
6年 感染対策副委員長・褥瘡対策副委員長→退職まで
普通第一種圧力容器取扱作業主任者
10年 介護支援専門員取得
11年 看護部次長、ケアマネジャー兼務
13年 オーストラリア海外研修
18年 看護部長→退職まで 同年山梨県看護功労賞受賞
山梨県立看護大学非常勤講師
23年 石和温泉病院定年退職
24年 医療法人どちペインクリニック 玉穂ふれあい診療所 医療地域連携室、
現在に至る