『クリントンVS.トランプ「ヘルスケア政策」の格差』
アメリカでもこのシステムをモデルに、5000万人とも言われる保険に入れない低所得層にも一定の医療サービスを受けられる道を模索したのが「オバマ・ケア」だ。しかしその成立には国論を二分する大変な論争と政治的な駆け引きがあったが、曲がりなりにも国民皆保険に近い制度が成立した。
間もなく大統領選だが、就任式では聖書に手を置き宣誓をし、最先端科学の粋の宇宙ロケットが帰還しても聖書に手を置いて神の加護に感謝をするような国が、保険に入れず、病気になっても何の医療も受けられない人達に手を差し伸べようとするのに反対するというのも理解に苦しむ。
今回の大統領選でも大きな争点の一つだが、この論争や両候補の政策の差異は、とりもなおさず日本の医療政策の反面教師の側面を持っていると思う。
この度、大西睦子先生が両候補の医療政策を比較されるという興味深い考察を発表されたので、ご許可を得て転載させていただいた。
なお、この原稿は新潮社Foresight 2016年7月19日に掲載されたもので、
http://www.fsight.jp/articles/-/41359
2016年7月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jpにも掲載されたものからの転載です。ご関係の皆様のご厚意に感謝いたします。
11月の米大統領本選挙に向けた候補指名獲得争いは、共和党はすでにドナルド・トランプ氏が、民主党もヒラリー・クリントン氏が事実上、確定しています。今後、本選挙キャンペーンにおいて、ヘルスケア政策は非常に重要であり、実際、これまでも大統領選では毎回論争の的になっています。トランプ氏とクリントン氏もそれぞれの政策を掲げていますが、多くの米国人は、トランプ氏の政策は果たして米国民の健康を促進できるのか、懸念を感じています。そこで、両候補者のヘルスケア政策を比較してみます。
●所得による寿命の格差
政策を比較する前に、まずは米国人の「寿命の格差」を見ておきましょう。
これまで多くの米国人が、貧富の差が寿命に影響を及ぼしているのではと感じてきましたが、諸外国との単純な寿命の比較データはあっても、国内における所得と寿命の因果関係を示す比較データはありませんでした。
そんな中、今年4月、スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学の研究者らが共同で、2001~2014年にかけて延べ約14億人の米国人を対象に所得と死亡率の因果関係を調査し、その結果を「貧富による寿命の格差」として論文にまとめ、『米国医師会雑誌(JAMA)』で報告しました。
それによると、男性については、所得の多いトップ1%の超富裕層の平均寿命は87.3歳であり、所得の低いボトム1%の最低所得者層の平均寿命が72.7歳で、平均14.6年もの寿命の格差が生じていました。そして女性も、所得トップ1%の平均寿命が88.9歳なのに対し、所得ボトム1%の平均寿命は78.8歳で、平均10.1年の格差がありました。
しかも、所得による寿命の差は急速に広がっています。調査した14年間で、所得トップ5%の平均寿命は、男性が2.34年、女性も2.91年延びましたが、所得ボトム5%は、男性0.32年、女性0.04年の延びに留まっています。
この結果について、論文の共著者マイケル・ステプナー博士は、MITの学内誌に、「過去14年間において、米国の富裕層はがんとの戦いに勝ったのだ」とコメントしています。
【The Association Between Income and Life Expectancy in the United States, 2001-2014,JAMA,Apr.26】【New study shows rich, poor have huge mortality gap in U.S.,MIT News,Apr.11】
●地域による寿命の格差
さらに研究者らは、低所得者の平均寿命が、地域によって異なることに気づきました。たとえば、ニューヨーク市の低所得者の平均寿命は81.8歳(男性79.5歳、女性84.0歳)ですが、デトロイト市は77.7歳(男性74.8歳、女性80.5歳)です。
ちなみに、低所得者が長生きする州は、ニューヨーク州やカリフォルニア州、バーモント州。一方、低所得者の寿命が短い10州のうち8州(オハイオ州、ミシガン州、インディアナ州、ケンタッキー州、テネシー州、アーカンソー州、オクラホマ州、カンザス州)は隣接していました。ただし、興味深いことに、アメリカ深南部(ディープサウス)は、州民の平均所得から見て最も貧しい地域と言われていますが、平均寿命は全国平均と同じ程度でした。
この論文は様々な米メディアが取り上げましたが、たとえば『ニューヨーク・タイムズ(NYT)』紙の以下のような解説が最も分かりやすいかもしれません。
ニューヨーク州は、米国の中でも最も貧富の差が激しく、生活費が高い地域です。それだけに、貧しい人は、手頃な価格の住居や自分をケアするためのお金や時間を手に入れるのが難しい。ところが実際には、ニューヨーク州は、貧しい人が長生きしている地域であることが報告されました。
理由として考えられるのは、たとえば州最大の都市であるニューヨーク市は、裕福な高学歴の人が高い税金を支払っているため、自治体としては、低所得者のための社会サービスに多くの費用を費やせているのです。また、ニューヨークには移民が多く、彼らは米国生まれの米国人よりもともと健康的です。しかも、ニューヨークには歩きやすい歩道が多いため、歳をとっても安心して歩けます。
さらに、いわゆる悪玉コレステロールを増加させて心臓疾患のリスクを高めるといわれる「トランス脂肪酸」の禁止についても、ニューヨーク市は先駆的です。米食品医薬品局(FDA)は、このトランス脂肪酸の食品加工品への使用禁止を2015年になってようやく発表しましたが、ニューヨーク市はいち早く2006年に規制を開始しています。加えて、積極的な禁煙活動も促しています。
ブルームバーグ前ニューヨーク市長時代の健康局長トーマス・ファーリー博士は、NYT紙に対して、「所得格差が大きくても、貧しい人がより健康に、より長生きするために、行政が援助できることがあるのです」と指摘しています。
【Poor New Yorkers Tend to Live Longer Than Other Poor Americans,The New York Times,Apr.11】●トランプ氏のヘルスケア7カ条
このように、国レベルでも州レベルでも、ヘルスケア政策は、すべての米国人の健康や寿命に影響を及ぼすのです。では、両候補者の政策はどうでしょう。トランプ氏については、氏の公式キャンペーンサイト『TRUMP MAKE AMERICA GREAT AGAIN!』に7つのポイントが述べられています。それに対するクリントン氏の政策を、公式キャンペーンサイト『Hillary for America』などを参考に比較してみます。
【トランプ政策1:医療保険制度改革(オバマケア)を完全に廃止し、保険に加入したい人以外は、保険に加入する必要はない】
超党派の非営利組織「責任ある連邦予算委員会(CRFB)」が、このトランプ氏のヘルスケア計画にかかる費用を解析しています。その結果、現状のオバマケアを廃止するには、10年以上の時間と5500億ドル(約55兆2100億円)もの費用がかかることが推測されました。さらに、この計画で約2100万人の国民が保険を失うことになります。
つまりオバマケアの廃止は、時間とお金の浪費だけではなく、貧しい人がようやく手にした保険を失うことになるのです。しかもトランプ氏は、オバマケアの廃止を主張するだけで、それに代わる具体的な医療改革については何も述べていません。
これに対してクリントン氏は、オバマケアを継続しつつ改善し、保険加入者をさらに増やし、最終的に国民皆保険を目指すことを目標としています。
【ARCHIVE: Analysis of Donald Trump's Health Care Plan,Committee for a Responsible Federal Budget,Mar.14】【トランプ政策2:保険会社は、どの州でも健康保険を売ることができるように法律を改正する】
米国では、州ごとに健康保険制度が異なり、保険会社は営業する州ごとの免許を取得する必要があります。
トランプ氏は、自由市場で保険会社が競争すれば、健康保険が安くなると主張します。NYT 紙によると、この政策は、トランプ氏だけではなく、スコット・ウォーカー氏、マルコ・ルビオ氏、テッド・クルーズ氏など、他の共和党元大統領候補者たちも支持しています。
ところが、この政策は機能しないと批判されています。たとえば2012年、ジョージタウン大学の研究者らが、保険会社が州法で他の州でも営業することが許可されている6つの州について調査しました。その結果、他の州で営業を始めた保険会社は全くありませんでした。
主な原因は、州による「治療費格差」です。同じ診断による同じ治療でも、全米の病院によって費用が異なり、州によって大きな費用の差があるのです。たとえば、ある統計によると、肺炎の治療費は、カリフォルニア州やニュージャージー州の病院では平均7万ドル(約730万円)です。それに対して、ノースダコタ州とメリーランド州は平均2万ドル(209万円)以下です。つまりノースダコタ州の保険会社が、カリフォルニア州の病院でかかった同じ病気の治療費を保険で補償するのは現状無理なのです。
一方、クリントン氏は、「コペイ(Co-pay)」と呼ばれる医療機関の窓口で支払う保険契約の費用(日本の初診料や再診料に相当する)や、「ディダクタブル(deductible)」と呼ばれる免責額(医療費が一定金額に達するまでは被保険者が払い、超過分を保険会社が支払う)のような自己負担額を減らして、より多くの米国人が医療を受けられるようにすることを政策として掲げています。
【The Problem With G.O.P. Plans to Sell Health Insurance Across State Lines,The New York Times,Aug.31.2015】【California and New Jersey Hospitals Charge Highest Average Prices,GOVERNING,May.9.2013】
【トランプ政策3:個人の健康保険の支払いを税金控除の対象にする】
事業雇用主は、雇用者の健康保険料の一部を負担すると、税金控除の対象になっています。なぜなら、雇用主が雇用者を増やすことで国民の保険加入をより促進できるからです。しかし、この仕組みを個人に適用しても、裕福な人だけがメリットを得ることにしかなりません。
米保険福祉省(Department of Health and Human Services=HHS)は、米国での貧困層決定の「基準となる年収のレベル」を示す指標として、毎年、「連邦貧困ガイドライン」を発表します。その2016年版では、たとえば1人暮らしで年収が1万1880ドル(約124万円)以下の人は、もともと税金を支払う必要はありません。つまり、貧しい人には税金控除の恩恵はないのです。
これに対してクリントン氏は、すべての米国人が保険に加入できるように、低所得者および障害者のために連邦政府が管轄する医療保険制度「メディケイド」の適用範囲をさらに広げることを主張しています。
【トランプ政策4:医療費に使うための医療貯蓄口座を開設する。この口座への貯金に上限はなく、口座名義人の死後は相続人に課税なしで贈与できる。この口座は特に若い人に有利で、将来病気になったときの備えとなる】
この計画は、富裕層はより豊かになりますが、貧しい人は貯金の余裕などありません。さらに政府は税収入が減り、公共サービスなどへの予算が減ります。
一方クリントン氏は、65歳以上の高齢者と障害者のための連邦政府が管轄する医療保険であるメディケアについて、50歳あるいは55歳の人でも加入できるようにすることを主張します。ただしクリントン氏は、低所得者に政府がどのようにメディケアの購入を援助するかについての具体的な案は述べていません。
【Hillary Clinton Takes a Step to the Left on Health Care,The New York Times,May.10】【トランプ政策5:すべての医師や診療所や病院などの医療機関は、価格を明瞭に示す。そうすれば、個人は最高の医療を“買う”ことができる】
確かに価格を知ることは良いことですが、だからといって誰もが手頃な価格のヘルスケアを受けることを可能にするわけではありません。また、ヘルスケアを商品にすると、贅沢品のように医療費が高騰し、裕福な人だけが良質な医療を受けられることになりかねません。ヘルスケア対策の目標は、誰もが手頃な価格の良質な医療を受けることを可能にすることです。
【トランプ政策6:連邦政府が各州に、ブロックグラントと呼ばれるメディケイドの補助金を交付し、使い方の詳細は各州にまかせる】
現在は、連邦政府がメディケイドを管理運営していますが、これを各州がそれぞれ独自に管理運営できるようになると、州によっては、貧しい人や女性、あるいは移民などを差別する可能性が出てきます。
この政策に対する直接的な比較ではありませんが、クリントン氏はヘルスケア政策として、女性の避妊や安全で合法的な中絶など生殖医療について、ビザなどの状況にかかわらず、移民であっても保険の加入を可能にすることを掲げています。
【トランプ政策7:海外の製薬会社が、安全で安い薬を米国内で自由に売れるようにする】
これは良いアイデアだと思いますが、現実的には、国内の製薬会社が一斉にロビー活動によって阻止するでしょうから、実現の可能性は極めて低いですね。
こうして個々の政策を検討してみると、私の個人的な感想としては、トランプ氏の政策は、所得や地域による米国人の健康や寿命の格差をさらに悪化させる危険性を感じさせます。むしろクリントン氏の政策のほうが、より多くの米国人が手頃な価格で良質な医療を受けられるようになるのではないかと思います。さて、みなさんはどうお考えになるでしょうか。
略歴医学博士。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて、造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月より、ボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。2008年4月より、ハーバード大学にて、食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事。著書に『カロリーゼロにだまされるな--本当は怖い人工甘味料の裏側』(ダイヤモンド社)。