市民のためのがん治療の会
市民のためのがん治療の会

『ステージⅣからの脱出 -再発から完治へ向かってー』


乳がん体験者コーディネーター
田村 博子
北海道がんセンター名誉院長で「市民のためのがん治療の会」顧問の西尾正道先生は、この事例を「経過としては、逆転満塁サヨナラホームランのような症例」と表現されました。 その奇跡的なホームランはたなぼた式に受け取ったというより、田村さんが「生きたい」「治るんだ」という強い意志と、そのためのいろいろな努力で手繰り寄せたものだったのではないでしょうか。
多くの方々にとってこのような生きることへの強い意志と努力は、大きな励みになり、参考にもなると思います。
(會田 昭一郎)

2007年5月、私は自分の左乳房にしこりを発見しました、51歳でした。 私の身内には母をはじめ乳ガン体験者が多く、私は毎年乳がん検診を受けていて、その時も10ヶ月前にマンモグラフィーを受けたばかりでした。 すぐに乳腺外科のクリニックに行くと、やはり悪性のものでサイズは4cm(悪い偶然が重なりガンの発見が遅れました)、リンパ転移も疑われると言うこと。 クリニックの先生は前回のマンモの映像に何も写っていないのを確認され「こんなに速く進むガンは見たことがない。」とおっしゃいました。


2つの病院でセカンドオピニオンを受けた後、私は以前母の手術の時にお世話になったS先生のクリニックで術前化学療法をお願いする事にしました。 化学療法(FEC+ドセタキセル)は最初は順調に行っていましたが、途中で全く薬が効かなくなりがんの大きさは3センチまで戻ってしまいました。 それでも最初よりもがんが小さくなっているので、12月に兵庫医大のM先生に手術をお願いし、 温存手術・リンパ郭清(結局、リンパ転移は抗癌剤で消えていましたが)を受けて病理の結果は、ステージⅡa・グレード3・トリプルネガティブ。


術後、放射線治療と私のガンの悪性度を考えての念押しの抗癌剤治療(パクリタキセル)を終了し、やれやれと思った矢先7月に右肺に転移が見つかりました。 ガンの最終段階ステージⅣでした。術後わずか7ヶ月のことです。 転移は3つ見つかり、大きい物はすでに3cmになっていました、2ヶ月前のCT検査では影も形も無かったのに・・  告知の帰りに車をぶつけてしまうくらいのショックでした。私にはもう未来は無いの?


それから私とガンとの長い戦いが始まりました。


最初、私はガンとの戦いを放棄しようと思いました。 トリプルネガティブの私には化学療法しか治療が無く、今までの経過を見てもこれ以上抗癌剤が効くとは思えなかったからです。 「私はリングから下ります。サンドバッグ状態になって死ぬのは嫌です。痛みが出たら緩和ケアをしてください。」と、先生方に言いました。 S先生もM先生も「まだ打つ手はあるよ。」と言いながらも 「田村さんの気持ちを尊重します。無治療も立派な選択の1つです。」とおっしゃいました。 私は余命は半年位だろうと思い、M先生に「私、年を越せるかしら?」と聞くと、先生は悲しそうな顔で天井を見上げながら少し黙り「たぶん越せると思うよ・・」と言われました。 そして「分かっていると思うけど、もう治らないからね。1%位の可能性はあるかもしれないけど・・」と。 「治らない治療なんていらない!!」私は悔しさでいっぱいでした。 後にM先生は「再発患者さんから、治りたいと言う言葉を直接聞いたのはあれが初めてだった。とてもショックだった。」と言われました。

時間の限られた私にとって、自分の命はとても大切なものでした。 自分だけのかけがえの無い宝物。 だから、治療を模索する時間さえもどかしい。

私は家族に自分の再発のことを黙っていました。 自分の今後を決めるまでは余計な心配をかけたくなかったからです。

夏休みの家族旅行が20日先に迫っていました。 旅行までには本当のことを家族に伝えなければいけない。 何日あれば夫も娘も立ち直れるかしら・・ 旅行の1週間前に私は家族に再発のことを伝えました。 「私、再発しちゃったの。」夕食の後にそういうと、夫は肩を落とし静かに泣き始めました。 夫の姿はとても小さく見えました。 「大丈夫!私は死なないから!」


治療をしないで残された時間を有意義に過ごそうと決心したものの、やはり家族のことを考えると、みすみす私が何もしないで死んでいくのは夫にも娘にもつらいことです。 そこで、先生に今の私に一番効果のありそうな抗癌剤を選んでもらってそれを試し、効果があるか横ばい状態なら継続、効果が無ければ即無治療にすると決めました。

私の要望に、S先生から提案がありました。 「抗癌剤の専門家である腫瘍内科医に相談してみたらどうか?」と言うのです。 S先生は近隣で腫瘍内科が有る病院をいくつか探して下さり、「この中で自分の行きたいところに相談に行ってください。」と紹介状を書いてくれました。


私はそのリストの中の1つの病院に診察日を聞くために電話をしました。 すると受付の男の人がそのまま腫瘍内科の先生に電話を繋いでくれたのです。 先生は私に「どんな状態なの?」といきなり病状を聞いてこられました。 そして「明日すぐに来なさい。家族の方と一緒にね。」と予約を取ってくださいました。 それが神戸の甲南病院でした。

次の日家族で病院へ行くと、腫瘍内科の先生はレポート用紙にさらさらと治療計画を書いて説明をして「このままでは余命は6ヶ月」と宣告をされました。 その治療プランの中にはガンが抗癌剤に耐性を作るのを阻害する薬(がんの耐性の一つであるP糖タンパクを阻害する抗真菌剤)を使うと言う項目がありました。 「これだ!」と私は思いました。 今までの治療では私のガンはすぐに抗癌剤に打ち勝っていたからです。 治療には3ヶ月の入院が必要でしたが私はこれに賭けてみようと思いました。


私はこの治療計画書を持ち帰り、S先生とM先生に見てもらいました。 お二人は「この治療は効くと思うよ。でも、今までで一番苦しい治療になるかもしれないよ」と甲南病院での治療を勧めてくださいました。

M先生は、「ぼくは今まで、田村さんの気持ちが分からなかった。でも、田村さんは治りたいんだよ!」と言われました。 「治りたい!」この言葉を聞いた時、私の世界が変わりました。 空が急に明るくなり全ての物が色鮮やかになり「生きるんだ!」と言う気持ちが沸きあがりました。

これが最後になるかも知れないと、心に焼き付けるように過ごした家族旅行から帰り、私は甲南病院に入院しました。 入院の前日にはスポーツジムへ行き、プールに浮かんで空を眺めました。私はまだ生きている。


恐れていた副作用も軽く、1ヶ月が経った時、先生が嬉しそうにCTのフィルムを持って病室に入ってきました。 なんと、ガンの転移が全て消えていたのです。 そして、その後に受けた肺の手術では、ガンが病理的にも完全に消えていることが分かりました。 (乳ガンで転移したガンを手術することは一般的では無く、乳腺の先生方は術後のリスクを考えて反対されていました。)


でも、幸せは長くは続きませんでした。 その後、私は5回もの脳転移を繰り返したのです。


初めて脳転移が見つかった日を忘れることはできません。 最初、腫瘍内科の先生は脳のMRIの映像を見ながら「何にもないと思うけどね。」と笑っていたのに、 「あっ!出てるわ!」 私は先生の悪い冗談だと思い「またぁ。冗談やめて下さいよ。」とパソコンの画面を覗きこみました。 そこにははっきりとドーナツ型の転移巣が映っていました。 転移は3つ有りました。

残念ながら、脳には「血液脳関門」と言うものが有り異物を脳に入れないようになっていて抗癌剤がほとんど効かないのです。

脳転移はピンポイントの放射線で治療できる大きさだったので、神戸の西のS病院でガンマーナイフという治療を受けました。 これは日帰りでもできるほど体に負担の少ない物ですが、放射線照射がずれないように頭を固定するためのフレームを頭蓋骨に直接ネジ留めしなくてはいけません。 初めての体験に不安を感じましたが、ネジ留め痛みもそれほどでも無く無事治療は終わりました。


首から下はガンの再発は無かったのにそれからも脳転移は続き、1度は開頭手術を受けました。 手術は10日の入院で済みましたが術後に後遺症が出て、ろれつが回らなくなり食事は食べこぼし、入院中はリハビリに励むことになりました。

でも、私には落ち込んでいる暇はありません。 当時、CNJの「乳がん体験者コーディネーター」と言う資格を目指していたのですがその試験日が1ヶ月後に迫っていたからです。 ベッドの上でシーツを消しゴムのカスだらけにしながら勉強していました。


それから5ヶ月経ち、脳転移も現れなくなり治療も終了、職場にも復帰、コーディネーターの資格も取れて「さあこれから!」と言う時に悪魔はまたやって来ました。 最悪の「髄膜播種」。これは脳の表面に種を蒔いたようにガンが散らばっている状態で脳が浮かんでいる髄液の中にもガン細胞が有るということです。 放射線照射を受けた後、ガンマーナイフの先生に「これからは長い先のプランは立てないほうが良いよ」と告げられました。 2012年5月のことです。

「また余命半年なのか・・」と思った私でしたが、本当はもっと深刻な事態でした。 早ければ2ヶ月で死んでしまうのです。


抗癌剤の治療が再開しました。 今回の治療は新たに「髄腔内注射」と言う治療が加わりました。 それは背骨の間から抗癌剤(キロサイド+メトトレキサート+ブレトニン)注射し、直接脳に薬が届くようにする物でした。 治療は毎週になり、今までは化学療法中でも続けていた仕事も休職しました。 それでも日曜日はスポーツジムでフラダンスのプログラムにウイッグをつけたまま参加していました。 5ヶ月間の「髄腔内注射」が終了したので、私は以前から行きたかったドイツの「ベルリンの壁」まで1人で旅行することにしました。 たまたま仲の良い友人がドイツにしばらく住むことになったので、まず彼女の家に泊めてもらい後はホテルも決めず一人旅をしました。 命の期限を切られなければできなかったことです。


「髄膜播種」から8年近く経ちました。

それからは脳転移は現れず、トリプルネガティヴの私は全くの無治療になっています。 今でも脳のMRIを受ける時はドキドキしますが、先日ガンマの先生も「もう、大丈夫かも知れないね。」と握手して下さいました。 他の先生方も「たぶん、治癒していると思う。」と言って下さいます。


再発した時、治療を諦めていたら今の私は有りませんでした。 治療を諦めなくて良かった!! 1%しかないと言われた可能性。 1%は0ではない。 100万人いたら1万人です。


今は再発乳がんも完治する事を目指した治療が始まっています。 再発しないよう努力することが一番ですが、再発しても怖がらないで!希望を捨てないで毎日を楽しんで下さい。

私は良き同志とも言える、S先生、兵庫医大のM先生、甲南病院の腫瘍内科の先生、S病院のガンマーナイフの先生、に支えられとても幸せでした。 先生方との強い絆があればなにも怖がることは有りません。

そして、乳がん仲間との暖かい交流は私にとって大切な物でした。


今、私は「乳がん体験者コーディネーター」として乳がん患者さんの相談に乗る活動をしています。 あくまでもボランティアですがこれを私のライフワークにするつもりです。

「決して諦めないで!」病気にも、人生にも・・



(編集注) トリプルネガティブ乳がん

乳がんの場合は、進行度合いのステージ付けではなく、最適な薬物療法を選択するためがん細胞の種類によってサブタイプ分類もされる。 ルミナルA型、ルミナルB型(HER2陰性)、ルミナルB型(HER2陽性)、HER2陽性、トリプルネガティブだ。

トリプルネガティブ乳がんは、エストロゲン受容体、プロゲステロン受容体、HER2の3つのがん増殖に関する細胞を持っていない(=陰性)ということなので、トリプルネガティブと呼ばれる。

乳がん全体の約10~15%がトリプルネガティブと診断され、増殖能力が高いものが多く、治療後にも再発の可能性が高い。また治療手段も限られ、再発後の生存期間も他のタイプの乳がんと比べると短い。

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