市民のためのがん治療の会
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『急ぐワクチン開発の落とし穴──コロナ世界最前線』


常磐病院/ナビタスクリニック
総合内科・血液内科医師
谷本 哲也
このところ新型コロナウイルスのワクチンの開発競争が熾烈を極めています。 もちろん一日も早くワクチンが開発されることは世界中が期待していることですが、今や各国の政治的な取引の材料になり、それだけに各国とも開発に前のめりになっているようです。
新薬は安全性と有効性、つまり安全で効き目があることが重要ですが、どうやら開発を急ぐために無理をして安全性と有効性、中でも安全性が必ずしも担保されないのに使用されかねない状況のようです。
そこでこの間の事情について谷本哲也先生がワセダクロニクル2020.07.10に寄稿されたものをご許可を得て、転載させていただきました。 いつもながらのご厚意に感謝いたします。
(會田 昭一郎)

新型コロナウイルスのパンデミックで特徴的な出来事の一つに、研究における中国の存在感の大きさがあります。 世界保健機関(WHO)の7月2日の発表によれば、新型コロナのワクチンの臨床試験は18種類の品目で開始されており、そのうち中国・天津市に拠点を持つカンシノ・バイオロジクス社を含め7つを中国系が占めています。

今回ご紹介する論文は、カンシノ社と人民解放軍の軍事科学院が共同で開発中の新型コロナワクチンに関するものです。 英医学誌ランセット(the Lancet)に6月13日、 「Safety, tolerability, and immunogenicity of a recombinant adenovirus type-5 vectored COVID-19 vaccine: a dose-escalation, open-label, non-randomised, first-in-human trial」のタイトルで掲載されました。 新型コロナワクチンをヒトに使用した臨床試験結果の、世界で初めての論文です。

このワクチンは開発の途中段階ですが、人民解放軍に限定して1年間の使用が認められることも報じられています。

しかしワクチンが持つ安全性のリスクを考えた時、手放しでは喜べません。

〇異物を体内に入れる宿命

この論文では、初めてヒトにワクチンを試す第1段階として行われた「第1相臨床試験」の結果が報告されました。第1段階の臨床試験は、ワクチンの安全性を調べることが一番の目的です。

なぜ、安全性をまずは確認する必要があるのでしょうか。 それを理解するために、ワクチンとはそもそも何かという点からご説明しましょう。

人間を含め、様々な生物は自分の体を守るための免疫という防御能力を持っています。 異物が内部に侵入してきたときに、それを排除する力が免疫力です。

初めて経験する異物に対しては、免疫力は不十分なことが少なくありません。 しかし、同じ異物が繰り返し侵入したときには、より強い免疫力を発揮できるという特徴があります。 感染症を予防するワクチンは、この免疫力の特徴を人工的に利用した医療で、最初に弱めの異物をあえて体内に取り込んで、病原菌に前もって抵抗力をつけることを狙っています。 主なものだけでも20種類以上の感染症予防ワクチンが世界中で用いられています。 通常は毒性を弱めたウイルスや病原菌由来のタンパク質などが成分です。

今回の新型コロナのワクチン開発では、タンパク質の設計図であるDNAやRNAと呼ばれる遺伝子を用いるなど、これまでにない新しい手法が積極的に採用されています。

しかし、このような最新のバイオテクノロジーといえども、異物を体内に入れ免疫を誘導するというワクチンの基本的なコンセプトに変わりはありません。 異物を入れる限り、副反応と呼ばれる人体への悪影響が出現する可能性は否定できないのです。

〇8割に痛みや発熱の副反応

カンシノ社のワクチンの第1相臨床試験は、3月末というかなり早い段階で着手されました。 試験には18歳から60歳までが参加し、平均年齢は36歳。 基本的に健康な人たち108名が参加しました。

この点は今回の研究結果を解釈する上で重要な点です。 なぜなら、新型コロナワクチンが特に必要になるのは、高齢の方や病気を持っていて免疫力が下がっている方だからです。 これらの人々では、健康な人たちより有効性が出にくく、その一方で副反応が強く出るリスクが高くなる可能性があります。 そのため、健康な人で得られた結果は、実用化の面では割り引いて考えなければなりません。

参加した108名は、36名ずつの3つのグループに分けられ、最初は一番少ない低用量、次に2倍量にした中用量、最後に3倍量の高用量ワクチンが投与されました。

幸いなことに重い副反応が出た参加者はいませんでしたが、約8割の人に痛みや発熱、筋肉痛や倦怠感などの副反応が認められました。

量が多いと副反応が強く出る傾向があり、強めの副反応は低・中用量では6%、高用量ではその倍以上となる17%の人に出現しました。 そのため第2段階以降では、低・中用量での検討が進められることになったそうです。

安全性だけでなく有効性についての検討も行われています。 その結果、抗体などの免疫力が上昇していたことが確かめられ、ある程度有効性が期待できる結果も確かめられました。 免疫力は、45歳から60歳の方よりも若い人の方が上がりやすいことも分かりました。

〇健康な数億人が使うということ

このように、ある程度有望な第1段階の結果が得られたことから、4月には第2段階の第2相臨床試験が始まりました。 500人の高齢の参加者に対し、低用量、中用量、そしてプラセボと呼ばれるニセのワクチンを用いた比較が行われています。

この結果が上手くいけば、第3段階の第3相臨床試験に数千人から数万人が参加して、実際に新型コロナ感染症に対して有効性が証明できるかどうか検討すると予想されます。 早ければ秋には実用化となるかもしれず、もしそうなれば極めて異例の速さです。

このように世界各地でワクチンの開発競争が進められていますが、米国の食品医薬品局(US FDA)は、感染を防いだり重症化を防いだりする有効性が5割以上あればワクチンを認めるというガイドラインを先日示しました。 新型コロナのパンデミックをコントロールするには、有効性は7割以上あることが望ましいと言われていますが、ある程度ハードルを下げてもやむを得ないことに決めたようです。

しかしワクチンで難しいのは、健康な人が数千万人から数億人単位で使う製品であることです。 普通の薬以上に、高い安全性のハードルが求められます。 体質は人それぞれなので、100人に1人、1000人に1人の副反応でも問題になります。 そのようなまれな副反応はなかなかすぐには分からず、何年も開発が進んでから初めて判明することも珍しくありません。

実際、使用経験が積み重なってから安全性が問題になり、第3相試験で失敗したり、実用化されてからも製品回収になったりしたワクチンの事例は過去にいくつもあります。

新型コロナのパンデミックを鎮静化させるためには、ワクチンが一刻も早く必要だ、という論調で、政治家やマスメディアが前のめりになり過ぎている事例が国内外問わず増えています。 最新のバイオテクノロジーを持ってしても、ワクチン開発は一筋縄にはいきません。 新型コロナの早期のワクチン開発にむやみに期待しすぎず、節度をわきまえなければならないでしょう。


谷本哲也(たにもと・てつや)

1972年、石川県生まれ、鳥取県育ち。 鳥取県立米子東高等学校卒。内科医。 1997年、九州大学医学部卒。 ナビタスクリニック川崎、ときわ会常磐病院、社会福祉法人尚徳福祉会にて診療。 霞クリニック・株式会社エムネスを通じて遠隔診療にも携わる。 特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所に所属し、海外の医学専門誌への論文発表にも取り組んでいる。 ワセダクロニクルの「製薬マネーと医師」プロジェクトにも参加。 著書に、「知ってはいけない薬のカラクリ」(小学館)、 「生涯論文!忙しい臨床医でもできる英語論文アクセプトまでの道のり」(金芳堂)、 「エキスパートが疑問に答えるワクチン診療入門」(金芳堂)がある。
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