市民のためのがん治療の会
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患者にとって臨床宗教師とは

『想いを南風に乗せて①-患者にとって臨床宗教師は役立つか』


堂園メディカルハウス 院長 堂園 晴彦(鹿児島在住)
NHKクローズアップ現代プラスは2016年8月25日(木)、“穏やかな死”を迎えたい ~医療と宗教 新たな試み~を放映した。今や死亡者数は年間130万人。日本は多死社会に突入したことを背景に、WHO・世界保健機関が命を脅かされる状態にある患者の4種類の痛みのうち、死の恐怖や死生観の悩みなど医師等の対応が困難な苦痛について対応できる専門家としての「臨床宗教師」を取り上げた。
今回は先年、「がん医療の今」に『Quality of Livesを問う二編』と題してご寄稿いただきました堂園メディカルハウス院長の堂園晴彦先生に、この問題に関連してご寄稿いただきました。
鹿児島在住の堂園先生からは「想いを南風に乗せて」としてシリーズでご寄稿いただきたいと思っております。
http://www.com-info.org/medical.php?ima_20120125_douzono
(會田 昭一郎)

臨床宗教師が生まれたのは、震災のときに、医者が遺族へ何もできないという「無力」を痛感したことが原点にあったのではないかと思います。そして、遺族に対しては「拝む」という行為が非常に大事であるということがクローズアップされた。つまり、宗教が遺族ケアになった。しかし、臨床宗教師が臨床で関わる分野は遺族ケアだけではないのでしょう?

ただし、医療側にも問題はあります。今の医療は「パッチワーク医療」、「肩書き医療」です。カウンセラー、ソーシャルワーカー、看護師、疼痛管理認定看護師というように細分化されています。医者もパッチワーク。診断はしますが、治らないとなったら、緩和ケアへという流れ作業。こういう世界で、宗教者はどのような肩書きでどのようなパッチワークのパーツとして入るのでしょうか。


この医療というのも、今やエビデンス医療、EBM(根拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)の考え方に席巻されています。いかに効率よく治すか。EBMにはギャンブル性がありません。医者の「さじ加減」とか、患者と医者の「阿吽の呼吸」とか、医者の裁量とか、「神様のお導きで」ということがありません。EBMには生と死をトータルで診る思想はありません。

本当は、進行した癌患者さんを最初に診断する医師が「この人はいずれ亡くなるのだ」という意識のもとで治療しなければならないと思うんです。しかし、現実はそうではありません。このような医療では、患者さんの心の痛みをケアすることは難しいのです。だから、トータルで診る存在として、「寄り添い人(びと)」が必要です。


その寄り添い人は、宗教者ではなくてもいいと思いますし、ご家族の力はすごく大きいので、もっとご家族に関わっていただいてもいい。ご家族の話を聴く人も必要でしょう。

「宗教」が必要なのは否定はしません。私もお祈りに行きますし、天という存在を信じていますから。健康な状態の人たちに「人はやがて死ぬ」という当たり前のことを教えてくれる、大いなる存在に目覚めさせてくれる、という意味でなら、宗教は(医療現場に)必要かも知れません。


癌末期の患者さんで、EBMでみたらもうどこの病院も診ない状態の時、言葉は悪いですが、時に治療にはギャンブル性が必要です。ギャンブルに賭けるということは、死のリスクを受け入れるということでもあるわけです。だから、このギャンブル性について患者さんと話し合いながら、治療をどうするかを決めていくのですが、若い医師の場合は、死の受容については、年配の患者さんにはなかなかちゃんと言えません。


「治療的自我」(治療的自己)という考え方があります。これは、医療者の品格や人間性といったものが疾患を抱えている人を癒すということなんですが、臨床宗教師も同じでしょう。自我が患者のクスリにならないような宗教者なら、臨床に入るのはやめたほうがいい。死にゆく人やその家族に寄り添うためには、ある程度の年齢も必要でしょう。死に臨んだ経験があるかないかも大きな要素です。

昔の宗教者の修行は命懸けだったと思いますが、今はどうでしょうか。しかし、たとえば堂園メディカルハウスに来て、進行癌の患者さんと接した方が、よっぽど修行になるかもしれません。

うちに医学生のボランティアが来ると、意識がぱっと変わるんです。意識を変える場で修行をすることが大事。肉体的な荒行ではなく、精神的に死に近づくのが修行です。


キュア(治療)をしてもケアは考えない医師もいます。末期の患者さんで肝臓に転移した癌を切除しようということになり、手術をためらっていたら、それ以降の診察は若い先生に切り替えられたということもありました。「手術しないなら、あなたを診ない」という独断的で、ケアの発想がまったくない医師もいます。

ケアする能力がないのか面倒くさいのか、医師がそれをやらない。昔は、「自分の患者さんは亡くなるまで診る」というのが鉄則でした。医者は先輩医師の背中を見て育つんです。しかし今、背中を見せられる医者が少なくなってしまいました。


患者さんが「死に向き合えるようになる」ために、臨床宗教師はなにができるでしょうか。

医者は余命を言います。しかしそれは唯物的です。唯心的な余命について、精神科医でさえ語りません。たとえば、「あと3ヶ月の命です」と医者が宣告します。患者さんが「私は余命をどう生きればいいのですか?」と訊いたら、多くの医者は「それはあなたにお任せします」としか言わない。

唯心的な余生をどのようによりよく生きるのかを考える際に、臨床宗教師が患者さんの心の「潤滑油」になる役割はあるかもしれません。必要、とまでは言いませんが。


しかし、臨床宗教師がバイオ(病気や体のこと)をあまりに知らないと、現場は混乱します。また、スピリチュアルがバイオに優先されると、ちょっと大変かもしれない。医者ってのはプライドがやたら高いので、患者さんがスピリチュアルに重きを置くようになると、面白くない。


看護師の考えも重要です。看護師のなかには新しいものを無視したり、強く拒絶する人もいます。緩和ケア病棟でも、カウンセラーがなかなか看護師に受け入れられなくて問題になることがあります。自分の仕事を取られたと思うんでしょうか。患者さんが自分に言わないことをカウンセラーに言うと、嫉妬もします。しかし、看護師を敵に回したら、医療現場では生きていけません(笑)。

ですから、臨床宗教師がチーム医療にがっちりと入るためには、本人の資質も重要ですが、それだけではなく、臨床宗教師を受け入れる医師の度量が広くないと。己のプライドに振り回されず、患者さんのためにスピリチュアルなケアを提供したいと思う、そういう医師のもとでは、臨床宗教師は働けるかもしれません。

臨床心理学の立場で言えば、これからの医療は、患者が主体的に智恵を身につける必要があります。患者は医療について何も分からないという前提で「子ども」のように扱って、皆が手を差し伸べる医療ではいけない。この主体性を育てることも、ケアの一分野かもしれません。医者か宗教者、どちらを頼っているのかという選択の視点ではなく、患者が医療について自主的に考え、自らをケアする医療です。

徹底的に、患者さんの身になる努力をして、そこから患者さんのことを考えないと、医療における患者さんの主体性を見過ごします。

ともあれ臨床の宗教師は、現在は過渡期・導入期なので「ふさわしい形」を模索中とも言えるでしょう。

(SOGI 2016年№2号より抜粋)

略歴
堂園 晴彦(どうぞの はるひこ)

慈恵医大卒業後、国立がんセンター、慈恵医大講師・鹿児島大学産婦人科講師を経て1991年堂園産婦人科で在宅ホスピスを開始。1996年有床診療所堂園メディカルハウス開院。通院・入院・在宅をコンビネーションしたホスピスケアを開始。
現在、堂園メディカルハウス理事長・院長、NPO法人風に立つライオン理事
著書:絵本「水平線の向こうから」(絵 葉祥明)と「サンピラー お母さんとの約束」(絵本田 哲也、北海道在住)、エッセー「それぞれの風景 人は生きたように死んでいく」 医学博士
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