がん患者と性
『がんの診断・治療後の性生活への支援』
獨協医科大学公衆衛生学講座准教授
高橋 都
忘れられない出会い
もう20年近く、「がんになったあとの性生活」という研究テーマに取り組んでいます。
「がんになったらセックスなんて考えている場合ではない!」と思う方は少なくないかもしれません。でも違うんですね。もちろん人それぞれではありますが、診断の衝撃が落ちついてくると、「これまでのようなセックスはできるのか?」「子どもを持つことは?」と心配になる方が大勢います。しかし、そのような心配をはっきりと医療者に質問する方は決して多くありません。
内科医としての私は、以前から「病気とわかったあとにも充実した生活を送る」ことが大切だと考え、生活の質に関する研究をしてきましたが、そこに「性」というキーワードを入れてくれたのは、人間ドックの診察室で20年近く前に出会ったある女性でした。その数年前に乳がんで乳房全摘手術を受けたというその方は、長くためらったあとにようやく口を開きました。「乳がんの手術のあとに夫とのセックスがなくなってしまったんです。バイブレーターを使っているのですが、かまわないでしょうか・・・。」人間ドックでそのような質問を全く予期していなかった私は、彼女の質問に対してシドロモドロになってしまい、「え〜と、かまわないと思います。快感を得ることも大切ですから・・・。」と言うのが精一杯でした。そこから先の答えが得られそうにないと悟った彼女は、そのまま「ありがとうございました。」と言って診察室を出て行かれました。
これはいけない、と思いました。私は生活の質の研究をしているなどと言いながら、生活の一要素として性をとらえていなかったのです。おそらく彼女が本当に聞きたかったのはバイブレーターのことではなく、もうセックスはできないのか、夫とどのようにコミュニケーションをとれば良いのか、といったことではなかったかと思います。医療者としての自分が、治療を受けるご本人やご家族の性生活について、何も考えていなかったことを思い知った瞬間でした。
がんという現実を目の前にしたとき、医療者は、「性生活どころではないはず」「命が助かっただけでも有り難い」「日本人にはそれほど大事なテーマではない」など、様々な言い訳を口にし、実はその重要性には薄々気づきながらも、いったい誰が、いつ、どのように、このデリケートな問題に関わったらよいものか、考えあぐねてきたのではないでしょうか。
研究・執筆・研修会
がん患者の性については、国内でも散発的に研究されていました。しかし20年前は、ご本人やご家族向けの資料はもちろん、医療者が手に取れる入門書もほとんどない状況でした。まず始めたのは、国内外の資料をできるだけ多く収集してレビューすること、そして、日本の現状を把握するため、患者さん対象の聞き取り調査をすることでした。この調査については「患者さんに性生活のことなど聞いて大丈夫か」という懸念の声もありましたが、私としては、「安全な環境を用意して真摯に聞けば、きっと語っていただける」という確信と「生の声を聞かないと何もわからない」という強い思いがありました。結果的に、首都圏の病院で乳がん治療を受ける21名の女性からとても深い体験談を伺い、英文論文にまとめることが出来ました (文献1)。2001年には日本乳癌学会の認定医・専門医(外科医)への意識調査を実施し、性関連のトピックが臨床現場で取り上げられていない実態と、実は医師自身もがん治療が性生活に及ぼす影響について正確な知識を得たいと考えていることを明らかにしました(文献2)。2002年にはアメリカがん協会発行の患者向け資料の翻訳出版が実現。2007年には一旦絶版になりかけるも、各方面からの働きかけにより新装版として再出版されました(文献3)。
2003年からは仲間たちと一緒に日本がんと性研究会を立ち上げ、医療者向け「がん患者さんの性を支援するための研修会」を毎年開催。2012年で11回を数えました。講義と相談場面のロールプレイで構成される本研修会には、医師・看護師・臨床心理士・薬剤師・ソーシャルワーカーなど全国から多職種が参加し、リピーター参加者もたくさんいます。草の根の活動ですが、それぞれの職場で患者さんやご家族とつながるのですから、とてもやりがいを感じています。研修会では、実際の臨床現場でどうしたら肩の力を抜いて性の話ができるのか、真摯に話し合っています。
2006年には乳がん治療を受ける女性とパートナーに向けた無料冊子(文献4)を作成しましたが、この冊子は、医療機関や患者会、がん関連イベントなどを通じてすでに10万部以上が配布されています。
その後もがん治療と性生活に関する医療者向け書籍の発行に関わり、化学療法専門医や乳がん領域の看護師などに向けた教科書の中で性生活に関する章を執筆する機会を得ました。こうして医療者の卒後教育の中に「性」というキーワードが組み込まれていくにしたがって、徐々に医療者の間にも性生活の情報提供とケアの重要性が理解されていったように感じます。
拡がるネットワーク
研究や出版は順調に進んだように見えますが、その陰には実に多くの出会いがありました。患者会などを通じて知り合った友人達からは、実際に治療を受けた立場から、啓発活動について多くの励ましをいただきました。いろいろなご縁を通じて、各種学会や勉強会、患者会のミーティングなどで「がんと性」をテーマにした講演を頼まれることも多くなり、メディア取材も増えました。昨年は日本乳がん学会の市民公開講座で「乳がんと性」講演が実現。市民公開講座で性生活の話・・・。「性は私たちの生活の大切な一部分」という考え方が市民権を得た思いがして、嬉しかったですね。また、硬派の月刊誌である「中央公論」誌が「ルポ・がん治療と性」と題して男性編(5月号)と女性編(6月号)を続けて発表したことも画期的なことでした。
20年近く前の人間ドックでの出会いから始まった「がんと性」への取り組みは、研究と実践を結びつけようとする試行錯誤のプロセスでもありました。その試行錯誤は今後も続くと思います。
そして、できることなら、あのとき診察室で質問をしてくださった女性にもう一度お会いしたい。今ならきっと、その方とパートナーの「幸せな性」について、もっとお話が伺えると思うのです。
参考文献
1. Takahashi M and Kai I. (2005) Sexuality after breast cancer treatment; changes and coping among Japanese survivors. Social Science & Medicine, 61: 1278-12902. Takahashi M, Kai I, Hisata M, Higashi Y (2006) The practices, attitudes and correlates of consultations regarding sexual issues in clinical encounters: A nationwide survey of Japanese breast surgeons. Journal of Clinical Oncology, 24(36), 5763-5768
3. アメリカがん協会編(高橋都・針間克己訳): がん患者の幸せな性 -- あなたとパートナーのために<新装版> 春秋社, 2007
4. 乳がん患者さんとパートナーのための<幸せな性>へのアドバイス
乳がん.JP ホームページより全文を読むことができます
http://www.nyugan.jp/bc/after/advice/index.html
<同冊子印刷体の入手問い合わせ先> アストラゼネカ(株)オンコロジー事業部
breastcancer.japana@astrazeneca.com
略歴
高橋 都(たかはし みやこ)
昭和59年岩手医大医学部卒業後、東京慈恵会医大第一内科、立川中央病院内科などで内科臨床に従事。 平成6年東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻、平成11年東京大学大学院医学系研究科助手、平成19年東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻、老年社会科学分野講師。
平成21年獨協医科大学公衆衛生学准教授、現職。
この間平成13-14年カリフォルニア大学ロサンゼルス校公衆衛生大学院客員研究員 学会活動: 日本サイコオンコロジー学会理事、日本性科学会幹事、日本がんと性研究会代表
著作: 「シリーズ生命倫理学第4巻 終末期医療」(共編著, 丸善出版, 2012)、「Asian Perspectives and Evidence on Health Promotion and Education」(共著, 2011)、「ケア従事者のための死生学」(共著:ヌーヴェルヒロカワ, 2010)、「新臨床腫瘍学第2版」(共著:南江堂, 2009)、「死生学シリーズ5 医と法をめぐる生死の境界」(共編著:東京大学出版会,「がん患者の<幸せな性>新装版」(共訳書:春秋社, 2007)など多数。 保健学博士
昭和59年岩手医大医学部卒業後、東京慈恵会医大第一内科、立川中央病院内科などで内科臨床に従事。 平成6年東京大学大学院医学系研究科国際保健学専攻、平成11年東京大学大学院医学系研究科助手、平成19年東京大学大学院医学系研究科公共健康医学専攻、老年社会科学分野講師。
平成21年獨協医科大学公衆衛生学准教授、現職。
この間平成13-14年カリフォルニア大学ロサンゼルス校公衆衛生大学院客員研究員 学会活動: 日本サイコオンコロジー学会理事、日本性科学会幹事、日本がんと性研究会代表
著作: 「シリーズ生命倫理学第4巻 終末期医療」(共編著, 丸善出版, 2012)、「Asian Perspectives and Evidence on Health Promotion and Education」(共著, 2011)、「ケア従事者のための死生学」(共著:ヌーヴェルヒロカワ, 2010)、「新臨床腫瘍学第2版」(共著:南江堂, 2009)、「死生学シリーズ5 医と法をめぐる生死の境界」(共編著:東京大学出版会,「がん患者の<幸せな性>新装版」(共訳書:春秋社, 2007)など多数。 保健学博士