市民のためのがん治療の会はがん患者さん個人にとって、
  最適ながん治療を考えようという団体です。セカンドオピニオンを受け付けております。
   放射線治療などの切らずに治すがん治療の情報も含め、
  個人にとって最適ながん治療を考えようという気持ちの現れです。
市民のためのがん治療の会
多くの方に、明るく生きてと伝えたい
『がんを抱えて「働く」』

どちペインクリニック・玉穂ふれあい診療所
看護師 木之元和美
平成26年2月1日(土)のNHK総合「目撃!日本列島〜仲間だから〜がんと生きる看護師〜」では、自らがん患者でありながら、患者ならではの細やかな心配りで患者たちの看護に溌剌と活躍しておられる、看護師の木之元和美さんの活動ぶりが報道された。自らが患者であることが、他の患者にも良い効果をもたらすと同時に、仕事を持つこと、人の役に立つことが、木之元さんご自身の治療にも良い効果をもたらしている様子が生き生きと報道された。 早速ご連絡をしてご寄稿をいただいた。(會田昭一郎)
私は平成24年4月20日、胆管がんの肺への転移の告知を受けました。両肺への複数の腫瘍がみつかり、5月2日から抗がん剤の治療を受けることになりました。抗ガン剤で小さな腫瘍をたたけるだけ叩いてその後の治療法を考えるという、主治医の方針でした。
平成22年12月肝内胆管癌で肝臓の一部の摘出手術を行い、L字型に切った腹部の傷がまだ癒えてない時期でした。23年3月31日定年を迎え、少し休んで又看護師として現場復帰しようと考えていた矢先です。まさか・・・私が。
転移があるということは全身に癌細胞が広がっているという認識あり、涙が止まりませんでした。抗がん剤の副作用の怖さから体が震えあがる思いを持ちながら、もう働くことはできない、と全身の力が抜けていき気力が失せていきました。
そんな悶々と過ごしていた、平成24年6月、ナースセンター(看護協会)から、1本の電話がありました。7月29・30・31日と、甲府市小瀬球場での少年野球の救護班の依頼でした。私はその時一瞬の不安がよぎりました。抗がん剤と利尿剤の服用をしていたからです。主治医はいつも私に働くことを推奨してくださっていました。真っ先に主治医に相談したところ大賛成してくださり、利尿剤は中止となり、猛暑の3日間(38度39度)小瀬球場に向かいました。その結果暑さも疲れも感じることなく、むしろ救急車を呼んだり熱射病になった方を冷やしたりしながら、細胞が活性化してくるのを体中から感じ取ることができたのです。そして8月1日、どちペインクリニック・玉穂ふれあい診療所に履歴書も持たずに「私を使ってほしい」と飛び込みました。「辛い場面も沢山あると思うけれど、死ぬまでいてください」と統括師長に言っていただき、経験を活かすようにと地域連携室の勤務をすすめてくださいました。
今、私は2年目を迎え、看護師でよかった!と看護の仕事を通して沢山の感動をもらっています。ある日がんの転移の為、3ヶ月前に看護師を辞めたという51歳の女性が相談に見えました。Yさんは外来通院と在宅支援を受けながら自宅で生活を送ることになりました。しかし、数ヶ月後緊急入院しその後逝去されました。25年12月7日ご遺族と語る会(忘れな草の会)が開催されました。その時Yさんのご子息に、「木之元さんは癌になったのになぜ働いているのですか?」と涙をポロポロ流しながら聞かれました。私は小瀬球場での話をしました。「そうか、母も看護師を続けていたら、もっと生きていたかもしれませんね。いつも木之元さんを目標にしていると言っていました。母の分も頑張ってくださいね。会えてよかった…!」と、紙面には表すことができない力をご子息からいただいたのです。この時ほど看護の仕事に誇りを持てたことはありません。今 私は63歳、暖かい職場で理解ある上司に恵まれとても幸せです。悩んでいる皆さん!どんな形でも現場にい続けてください。今まで培った看護の経験があればきっと感動をもらえるはずです。
癌になると4人に1人は依願退職に追い込まれることが多いという統計があります。癌になった本人よりも職場側で、いつ何が起きるか分からない人を使うわけにはいかないという理由がとても多いようです。医療の現場でもそうです。私もその経験者です。定年後新しい職場へ責任者として採用になったばかりで肺への転移を告知されました。そして、「治療に専念してください」の一言で退職に追い込まれました。
だから癌になったからといって仕事はやめないでほしい。今職を探している人はきっと理解ある職場はあると思います。
自分の病気を隠さず 週1日からでもいいからという気持ちで当たってください。ご自分のキャリアを信じてそして人を信じて、自分のがんが今以上悪さしないと信じてください。

抗ガン剤は怖い、がん=死 という概念はまだまだあります。でも癌にかかった人が元気に前向きに笑顔で生きている姿はきっと格好いいし、社会の見方もかわってくるのではないかと、考えています。
あきらめない。あきらめるということは逃げ出すことである。
 そこが聞きたい
Q 主治医がいつも働くことを推奨しておられたようで、体調も含めた相談に乗っていただくには最適な状況でしたね。

A 平成16年胆嚢がんを早期発見してくださった山梨大学医学部の板倉淳教授との関係がとても良好に保たれています。「木之元さんは元気に働くのが一番合っている」と。抗ガン剤如きに負けるなと、いつも言ってくださっていました。いつも最善の治療を考えると言ってくださっています。診察に行く都度、もっと働くようにと今でも言ってくださっています。励まされます。

Q 炎暑のなかで野球少年たちの看護をされながら、「細胞が活性化してくるのを体中から感じ取ることができた」ことを実感されたのは、本当に良かったですね。

A 野球少年たちは誰も倒れませんでしたよ。むしろ 観戦者の大人が倒れていました。 それにも感動しました。目標があればどんなことにも負けないという根性を少年たちから教えてもらいました。体中からイキイキした感情が湧き上がってきたのを今でも忘れません。

Q 履歴書も持たずに「私を使ってほしい」と今の勤務先に飛び込まれたそうですが、そういう積極的な行動が素晴らしいですね。やはり、「意志あるところ、道あり」ですね。

A まさか 採用になるとは思いませんでした。長く勤めていても癌になると退職に追い込まれるという状況があることを知っていましたから・・・。抗ガン剤治療をしていることを正直に話しました。それでも採用でした。しかし10月 副作用で肺炎になり入院し、2か月も休んでしまいました。それでもまた復職できました。こんな職場を私は誇りに思います。

Q わたしも舌がんですので、もし、手術をしていればほとんど話せなかったと思います。そうなると、一般的には仕事はやめざるを得ないことになるでしょう。私の主治医の西尾正道・北海道がんセンター名誉院長は講演などでいつも、「離せなくなっても辞めないでいいのは、公務員ぐらいだ」と言われます。しかし、色々な働き方もあるので、何とか雇用側にもがん患者の雇用について理解が深まると良いと思いますね。

A そうです。どうして癌は特別な目で見られるのでしょう。そしてなぜ隠したがるのでしょう。私はやっと、癌患者ですと言えるようなりました。同情の目で見られるのがたまりませんでした。26年間勤めた職場でも一部の幹部に話しただけでした。癌という病気に対して心のノーマライゼイションが実現できる世の中に成ってほしいですね。

Q 働き方も全力投球でなくても、1日おきとか、週1日とか、無理のないような働き方で、正にワーク・シェアができると良いですね。

A 現在週2回のパート勤務になっております。患者さんと接する時間や回数は少なくなりますが、時間ではなくその深さだといつも思っています。どんな仕事でも時間は短くても与えられた業務に対して責任はあります。だから誇りと自信を持つことができます。職場へ行くとしゃんとする自分がとても好きです。

Q 木之元さんもどうぞ、ご無理をなさらないで、じっくり、長くご勤務になられて、患者でないとわからないようなきめ細かい看護等にご活躍いただきますよう。

A 今のままの状態でゆっくりそして充実した時間がいつまでも続くことを自分自身も願っております。職場の仲間と患者仲間とそして家族と、支え支えられながら心を救える看護を目指していきます。

Q このたびは本当にありがとうございました。

A こちらこそありがとうございました。少しでも多くの皆様に元気になってほしいです。
いつか来るその日まで精一杯夢の実現を目指して欲しいです。


略歴
木之元 和美(きのもと かずみ)

昭和45年 甲府第一高等学校卒業
   47年 准看護師免許
   56年 看護師免許
   49年 山梨勤労者医療協会
   59年 上記 退職
   60年 医療法人 石和温泉病院
平成4年 病棟婦長
   6年 感染対策副委員長・褥瘡対策副委員長→退職まで
       普通第一種圧力容器取扱作業主任者
   10年 介護支援専門員取得
   11年 看護部次長、ケアマネジャー兼務
   13年 オーストラリア海外研修
   18年 看護部長→退職まで 同年山梨県看護功労賞受賞 
        山梨県立看護大学非常勤講師
   23年 石和温泉病院定年退職
   24年 医療法人どちペインクリニック 玉穂ふれあい診療所 医療地域連携室、
       現在に至る


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