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市民のためのがん治療の会
再考 生命倫理・生命哲学
『脱原発と優生思想』

安積 遊歩
 かつて、日本には不良な子孫の出生を防止する目的で、「優生保護法」があった。こうした歴史的な流れもあり、現在の日本では出生前の染色体検査で異常ありと判明すれば、97%が堕すと報道されている。
 また遺伝的な疾患を持たない人でも、戦後の生活の在り方により、放射線や農薬や化学物質などの因子が絡んで、子孫に影響を与える de novo mutation(新規突然変異)の問題もクローズアップされている。こうした時代において、生命倫理の問題を考えるきっかけとして、安積遊歩さんに玉稿をお願いした。再生医学やクローン技術も進歩しているが、置き去りにされている生命倫理・生命哲学について考える機会になれば幸いである。
(「市民のためのがん治療の会 顧問」 西尾正道)
 私は1956年に福島に生まれた。生まれつき骨が人より弱いという特質を持っていて、今までに20回近く骨折し、8回以上手術をされた。診断名は骨形成不全と言われているが、自分のことを不全と言う風には言いたくないとずっと思ってきた。

  40歳で同じ骨の特質を持った娘を生んでからは、特に自分たちのことを不全という言葉では言い表してほしくないと思うようになった。骨が弱いことが不全ではなく、ただ日常を生きるのに人より慎重さと助けがいるということだけなのだ。その自分自身の体を看ようとする慎重さと助けさえ上手に得ることができれ ば、私たちの人生もなかなか素敵なものだ。

私自身のことをもう少し紹介すれば、学校や結婚で様々な差別を受けたが社会に向けて発言し続けること、そしてそれを社会を変える力として生きてきた。駅にエレベーターを設置したり、街にリフトバスを走らせ、地域で一人の人間として生き生きと生きるための方策を実現してきた。1994年にエジプトのカイロで「人口と開発世界会議」が開かれた時、日本にあった優生保護法を告発し、その優生思想部分を削除するきっかけをつくってきた。

障害を持つ人の違った身体を奇形や異常などと呼んで、この世にあってはならないかのような言い方、考え方を優生思想と言い、これはヒトラーがユダヤ人を大虐殺する時に採用した考え方だ。その背景には遺伝学という学問もあり、ナチスはユダヤ人を虐殺する前に、ドイツに 住んでいた障害を持つ人や同性愛者等をまず殺した。

この考え方は戦後も引き継がれ、各国で優生思想を背景にした法律ができ、障害を持つ人たちの「性と生殖に関する自由と権利」を奪い続けた。日本でも1952年に優生保護法という障害を持った人に強制不妊手術を行ってよしとする、ひどく差別的な法律が立法化され、1996年まで続いた。この法律の第一条には「母体の保護と不良な子孫の出生予防」という文章があった。私は13歳でこの文章を初めて読んだのだが、自分の身体が不良な子孫と呼ばれるものなのだと知り、衝撃を受けた。

1996年、この法律の優生思想部分が削除された年に私は自分の特質を引き継いだ娘を出産した。その年まで街のあちこちには「優生保護法指定医」という産婦人科の看板があり、私はそれを見るたび自分がここに存在してはならないという脅迫を感じ続けていた。

原発が非常に差別的で危険な存在であるということを知ったのは優生保護法を知った約10年後くらいだったと思う。今は亡き高木仁三郎さんの講演を福島県いわき市で聞き、あまりの凄まじい話に直後は思考がストップしたが友人の姉が白血病になったことをきっかけに、脱原発に向けた活動にできる際には極力参加して きた。

2011年の3月11日の大地震とそのあとに続く原発事故、当時は東京に住んでいたが、周りにいた誰よりも敏感に行動し、14日には13人の仲間を引き連れて名古屋に逃げた。その後兵庫から娘と3人の友人で、3月末にはニュージーランドに避難していた。

私も娘も骨が弱いために身長が小学校低学年くらいしかないので、放射能を地面から吸収する率も高い。人より弱い筋肉や骨の各所にセシウムやストロンチウムが溜まっていくという恐怖と、日本政府と電力会社に対する怒りで心も体も爆発しそうになったが、娘の存在をとにかく守りたいと決断しての避難だった。

ニュージーランドには約三年弱いることができた。娘が高校に留学するということで私にも保護者ビザが出、ニュークリアフリーの美しい自然溢れるその地での暮らしは文字通り夢のような日々であった。

もちろん冒頭にも書いた通り、二人とも骨が脆く車椅子を使用している身なので、助けを求め続け、常にそれを得ることは容易ではなかった。しかしそれを諦めず求めることによって、人々の優しさを更に頂いた。私と娘の諦めのなさは最初人々に驚かれもしたが、帰る時には多くの仲間に囲まれ助け合う社会に向けた歩みを一歩も二歩も実現できていたと思う。人々が相互に扶助し合うという、私の理想とした生活が、日本に帰って来てからはまたまた優生思想と経済至上主義に直面することになった。

日本はその三年間の間に脱原発の気運はだいぶ高まっていたとは思うが、政治的には再稼働の目論みは消えず、それどころか他国に原発を輸出するという暴挙が計画され続けている。脱原発が人々の意識に徹底されない理由に、私は優生思想の蔓延があると考えている。

それを杞憂とは思えない法律が次々と立法化され、また極めつけの尊厳死法が先の国会に上程されようとしていた。臓器移植法、出生前診断、そして完全な立法化には至っていないが尊厳死法、これらの法案に共通する考え方は、生きていて価値のある命とない命があるという考え方、つまり優生思想である。

脱原発を推進したい人の中にも時に、命の選別に慎重さを欠く発言がある。ただ、意識的には脱原発を推進する人は、障害者差別をしたいとは全く思っていないと私は信じている。原発が一部の人にのみ巨大な利益をもたらすことで人々に凄まじい格差をもたらし、また自然に対してはウランの採掘と放射性廃棄物の問題、また爆発事故によって放射能の拡散という徹底的な破壊が行われることを知っている人たちだ。脱原発を達成するために優生思想とはなにかを洞察し、それを越えていくことが重要な課題である。

学校教育から始まる優生思想の徹底化は成績の良くない子どもたちはろくな仕事に就けなくて当たり前、男子たちは行き着く先は原発労働者か土方、あるいは自衛隊しかない、そして女子たちには援交や性風俗、どちらにしてもワーキングプアーとして社会の底辺を生きるという構造を作り出している。

そしてこれらの構造にプラスして先に述べた三法が原発の容認と優生思想を更に強化しているのである。たとえば臓器移植法案には二つの体が必要なわけだが、臓器を提供する側とされる側は明確にこの世界に必要のない命と必要のある命に分けられている。出生前診断に至っては生まれる前に生まれるべきでない命ということで排除されるわけで、これらは明確な差別法だ。脱原発は人々の意識に原発に代わる自然エネルギーの探求を呼びかける。優生思想から互いに協力し対等であろうとする社会への転換は、差別を問い、一人一人の尊厳を再認識しなければならない。体の作りが人とどんなに違っていようと、コミュニケーションのあり方が非常に個性的であろうと、あるいは全く言葉らしい言葉を持たなかったとしても人は、その存在のままに貴ばれるのであると、脱原発社会は志向するのである。

略歴
安積 遊歩(あさか ゆうほ)

1956年福島生まれ、幼いときから過酷な治療を受け、13歳の時に9回目の手術は受けないと決断し、それ以来自分の体を自分で見ることを実践。40歳で娘を出産。1983年アメリカに障害者運動のリーダー研修に行き、日本で初めての自立生活センターの創立に関わる。ピアカウンセリングを日本で広め、障害者が地域で自立していくためのシステムを作る活動をしてきた。女性子ども、環境保護の問題にも関心を持ち発言を続けている。
著書『癒しのセクシートリップ』『車椅子からの宣戦布告』『超自立論』(太郎次郎社)その他翻訳、共著多数


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